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第27話 愛していたのに⑤

Autor: なつめ
last update Fecha de publicación: 2026-08-30 07:12:50

 ヴィルレオは深く息を吐き、そっと回廊の影から身を引いた。

 彼の足音に気づいたのか、リュゼリアがほんの少しだけ顔を上げる。視線が一瞬、こちらを掠める。けれど彼女は何も呼ばない。ヴィルレオもまた、名を呼ばなかった。

 それでよかったのかどうかは、わからない。

 ただ少なくとも今は、それが一番ましな形に思えた。

 名を呼びたいという思いはあった。

 昨夜、扉の前で何度も胸の中へ置いた彼女の名は、いまも喉のすぐ近くまで上がってきている。

 リュゼリア。

 呼べば、彼女は振り返るだろう。

 穏やかな声で「何でしょう」と応じるだろう。

 だが、その呼びかけは誰のためなのか。

 彼女へ何かを伝えるためか。

 それとも、ただ自分が彼女とつながっていることを確かめたいだけなのか。

 その区別がつかないうちは、口にしてはならない気がした。

 愛していると気づいたからといって、その愛をすぐに差し出すことが正しいとは限らない。

 彼女は、欲しかった時に欲しかった言葉を受け取れなかった。

 期待を捨てることで自分を守り、ようやくこの別邸で穏やかな時間を見つけ始めた。

 そこへ遅れて現れた自分が「愛している
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  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました    第28話 後悔の始まり①

     その日の午後、南の別邸には薄い曇り空がかかっていた。 陽はまったくないわけではない。雲の向こうで白く広がり、湖の水面へ鈍い銀色を落としている。けれど昨日までのようなやわらかい明るさは薄く、風も少し強かった。まだ春と呼ぶには頼りない、冬の名残を引きずったままの午後だった。 リュゼリアは庭へ出なかった。 朝のうちに少し咳が長引き、熱もわずかに上がったらしい。クレメンス医師は「大きな変化ではございません」と言いながらも、今日は部屋で休むよう言い渡した。彼女も珍しく素直に頷き、窓辺の長椅子へ移って、本を開いたまま静かに時間を過ごしているとアイダは言った。 ヴィルレオはその報告を廊下で聞き、何も返せなかった。 何か言えば、焦りがそのまま声へ滲みそうだったからだ。熱はどれほどか。咳は何度か。胸の痛みは。食事は。水は。薬は。 知りたいことは山ほどあるのに、それを矢継ぎ早に訊ねる資格が自分にあるのかと考えた瞬間、喉の奥で言葉が止まる。彼女の苦しみ方を知らないのだと、昨夜あれほど静かに思い知らされたばかりだった。 だからヴィルレオはただ頷き、廊下の窓から見える灰色の空をしばらく見ていた。 風が強い。 あの花壇の白と青は大丈夫だろうか、とまず思った。 次に、こんなふうに小さなことから彼女を思う自分が、どこかひどく滑稽に感じられた。 花のことなど、昔から彼はほとんど気にしたことがない。食堂へ何色の花が活けられているか、玄関ホールの花丈が高すぎるか低すぎるか、温室で白薔薇が咲いたかどうか。そんなものは、目に入っても意味を持たなかった。 それが今は、白と青の小さな花が風に耐えられるかどうかまで気になってしまう。 なぜか。 答えはもうある。 そこへ彼女が触れたからだ。 彼女が植え、彼女が見て、彼女が咲くのを待っている花だからだ。 そう思った瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。 愛していたのに。 ようやくそう認め始めた自分の感情は、こういう何でもない枝葉にまで彼女の姿を見つけてしまう。だが、その愛が彼女の時間の中で一度もちゃんと差し出されなかったことも、同時にもう認めざるを得なかった。     ◇ 午後遅く、ヴィルレオは館の執務室で王都から届いた書類へ目を通していた。 別邸の執務室は本邸の書斎よりずっと小さい。机も、棚も、置かれている書類の量も控えめだ。

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第27話 愛していたのに⑤

     ヴィルレオは深く息を吐き、そっと回廊の影から身を引いた。 彼の足音に気づいたのか、リュゼリアがほんの少しだけ顔を上げる。視線が一瞬、こちらを掠める。けれど彼女は何も呼ばない。ヴィルレオもまた、名を呼ばなかった。 それでよかったのかどうかは、わからない。 ただ少なくとも今は、それが一番ましな形に思えた。 名を呼びたいという思いはあった。 昨夜、扉の前で何度も胸の中へ置いた彼女の名は、いまも喉のすぐ近くまで上がってきている。 リュゼリア。 呼べば、彼女は振り返るだろう。 穏やかな声で「何でしょう」と応じるだろう。 だが、その呼びかけは誰のためなのか。 彼女へ何かを伝えるためか。 それとも、ただ自分が彼女とつながっていることを確かめたいだけなのか。 その区別がつかないうちは、口にしてはならない気がした。 愛していると気づいたからといって、その愛をすぐに差し出すことが正しいとは限らない。 彼女は、欲しかった時に欲しかった言葉を受け取れなかった。 期待を捨てることで自分を守り、ようやくこの別邸で穏やかな時間を見つけ始めた。 そこへ遅れて現れた自分が「愛している」と告げれば、彼女はどう受け止めるだろう。 昔の彼女なら泣いて喜んだのかもしれない。 今の彼女にとっては、再び期待と失望のあいだへ立たされるための、重い言葉にしかならないかもしれない。 だから今は、言わない。 愛しているからこそ言わない、という考えさえ、自分を美化するためのものになり得ることはわかっている。 かつて彼は、守るためだと思いながら彼女を遠ざけた。 同じ過ちを、別の言葉で繰り返してはならない。 言わないことが本当に彼女のためなのか。 それとも、拒まれることを恐れる自分の臆病さなのか。 その問いも、これから何度も自分へ向けなければならないのだろう。 それでも今、この瞬間だけは、彼女が花を見つめる静かな時間を壊さないことを選びたかった。 ヴィルレオは廊下の奥へ歩き出す。 背後には庭がある。 土の匂い。 湖から来る風。 白と青の小さな花。 そして、その花の前に座るリュゼリア。 振り返らなかった。 振り返れば、自分の視線を彼女が感じ取るかもしれない。気を遣い、声をかけなければならないと思わせるかもしれない。 それすら、今はさせたくなかった。 彼

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第27話 愛していたのに④

         ◇ 午前の診察が終わるころ、ヴィルレオはようやく客室を出た。 別邸の回廊には、朝のやわらかな光が斜めに差し込んでいる。木の床は王都の石よりもずっとやさしく、足音を吸い込みながらも完全には消さない。だから、自分がここを歩いていることが妙に現実味を持って耳へ返る。 リュゼリアの寝室の前を通りかかると、ちょうどクレメンス医師が出てきたところだった。「旦那様」 医師は一礼し、低く声を落とす。「今朝は比較的落ち着いておられます。昼前に少しだけ庭へ出られるかと」「咳は」「あります。ですが昨夜ほどでは」「そうか」 それだけのやりとりで終わる。以前なら、ここで「では頼む」としか言わなかっただろう。だが今は、医師の一言一言に、彼女の呼吸の浅さや熱の上がり方まで想像してしまう。 守るつもりだった過去を思い返すたび、それらは全部ただの放置だったのだと悟る。 ならば今、何をすればいい。 触れたいのに触れられない。話したいのに、言葉はいつも遅い。謝っても届かない。変えると言っても、彼女の期待はもうそこにない。 それでもなお、彼は歩き出すしかない。 遅いと知りながら、ようやく自分の愛が何をしてこなかったのかを直視した以上、立ち止まっていることだけはもう許されない気がした。     ◇ 昼前、リュゼリアはまた庭へ出た。 籐椅子へ座り、膝に毛布をかけ、白と青の花壇を眺めている。今日の風は昨日より穏やかで、陽も少しだけあたたかい。彼女はまだ病んでいる。頬は白く、肩も細い。だが、こうして花を見る時だけ、目の奥へほんの小さな柔らかさが灯る。 ヴィルレオは少し離れた回廊の影から、その姿を見ていた。 すぐには近づかなかった。 近づけば、また言葉を交わさねばならない。彼女は応じるだろう。穏やかに。けれど、昨夜までのことを思えば、ただ近づくこと自体が彼女の穏やかな時間を乱す気がした。 彼は回廊の柱へ片手をかけ、その細い背を見つめる。 愛していたのに。 今になってそれを認めたところで、彼女が手にしたこの静かな午後へ、自分は何を差し出せるのだろう。 何もないのかもしれない。 せめて、邪魔をしないことだけが今の自分にできることかもしれない。 その考えが、また苦い。 守るつもりで遠ざけ、結局放置した過去を経て、今また「邪魔をしないことしかできない」と思

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第27話 愛していたのに③

     ヴィルレオは結局、その茶をぬるくなってから飲んだ。菓子も夜になってからひとつだけ口にした。味は悪くなかった。いや、その時ですら「妙にちょうどいい塩気だ」と思った覚えがある。 なのに、翌朝にはもうそのことを忘れていた。 今ならわかる。 あれは単に茶と菓子を運んできたのではない。 彼女は、不機嫌な彼へ“関わろう”としたのだ。 気遣いではある。だが、それだけではない。雨の暗い日、ひとりで書斎へ籠もる夫へ、自分の存在を差し出したのだ。 それを、自分は「いらない」の一言で返した。 守るために距離を取ったのではない。 ただ自分の機嫌の中へ彼女を入れたくなかっただけだ。 そうやって拒まれた小さな関わりが、どれほど積み重なっていたのか。 いまなら、恐ろしいほどよくわかる。     ◇ さらにもう一つ、もっと静かな記憶がある。 結婚して二年ほど経った頃、王都の寝室で深夜に目を覚ました時のことだ。仕事が遅くなり、自室へ戻ったのはかなり遅い時間だった。ヴィルレオは疲れていて、明かりを落とさせ、上着もそこそこに寝台へ入った。 しばらくして、隣の内扉の向こうでごく微かな物音がした。 紙をめくる音だったかもしれない。 あるいは、水差しの蓋を置く音。 それでヴィルレオは目を覚ましたのだ。 向こうの部屋には、まだ灯りが残っていた。扉の下から細い光が漏れていたのを覚えている。あの時、ヴィルレオはほんの少しだけ考えたのだ。 まだ起きているのか、と。 体調でも悪いのか、と。 あるいは、待っていたのか、と。 考えた。 たしかに、そこまでは考えたのだ。 だが次の瞬間、彼はその思考を捨てた。 起きているなら勝手に眠るだろう。 具合が悪ければ侍女を呼ぶだろう。 待っていたとしても、今さら部屋を訪ねて何を言う。 そうやって、全部を自分の外へ置いた。 そして寝返りを打ち、目を閉じた。 翌朝、食堂で見たリュゼリアの目の下には、うっすらと影があった気がする。だがその時も彼は、深く問わなかった。 あれを、当時の自分は「踏み込みすぎない配慮」だと思っていたのかもしれない。 彼女の私的な時間を尊重している。 夜更けに無理に関わらず、休ませている。 そんなふうに。 だが実際はどうだ。 ただ、扉一枚隔てた向こうで起きている寂しさや不安を見ないふりしただけ

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第27話 愛していたのに②

         ◇ 結婚してすぐの頃、王都の大公爵邸での最初の夜会のことを、ヴィルレオは不意に思い出した。 大広間は灯りに満ち、金の装飾が眩しく光り、音楽と笑い声がいくつもの輪になって渦巻いていた。政略上必要な顔ぶればかりが集められた夜会だった。上機嫌な者もいれば、腹の底で別の駆け引きをしている者もいる。女たちは微笑みながら互いの宝石を褒め、男たちはグラスの傾き一つで牽制し合う。 あの場へ、リュゼリアは新しい公爵夫人として立っていた。 白に近い淡い色のドレス。控えめな真珠。まだこの屋敷に慣れきっていない頃なのに、背筋だけは真っ直ぐで、誰よりも綺麗に笑っていた。彼女は挨拶をし、礼を失さず、相手の名も家格も取り違えず、必要以上に喋らず、それでいて「冷たい」と思われぬ程度に温度を足していた。完璧だった。誰が見ても、申し分ない公爵夫人だっただろう。 だからこそ、ヴィルレオは安心したのだ。 こなせると。 この女は、こういう場でもきちんと立っていられるのだと。 安心したあとは、彼はいつも通り、自分の政治的な会話へ戻った。必要な男たちと話し、必要な位置に立ち、必要な牽制をした。彼女のほうを振り返ることはほとんどなかった。 その夜会の終わり頃、一度だけリュゼリアが彼のすぐ傍へ来て、低く言ったのだ。「旦那様、お疲れではございませんか」 当時の自分は、何と答えただろう。 たしか「問題ない」とだけ返したはずだ。 それで終わりだ。 彼女はそれ以上何も言わず、静かに一礼してまた人々の輪の中へ戻っていった。 ヴィルレオはその時、自分の答えがそっけなかったとは少しも思わなかった。むしろ、余計な感傷を入れず、公爵として当然の応対をしたとすら思っていた。 だが今思えば、あの一言は何だったのだろう。 ただの社交辞令だったのか。 いや、違う。 彼女は新しい公爵夫人としてあの場へ立ちながら、それでもなお、夫の顔色を気にして近づいてきたのだ。疲れてはいないか。無理をしていないか。そういう、何でもない小さな気遣いを、自分へ差し出した。 欲しかったのはたぶん、そこでの短い返事ではなかった。 お前も疲れただろう、とか。 少し休め、とか。 あるいは、あとで戻ったら話そう、とか。 そういう、ごくわずかな言葉だったのだろう。 なのに自分は、それをすべて「余計なもの」として切

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第27話 愛していたのに①

     朝の光は、昨日までと同じように南の別邸へ静かに落ちていた。 湖のほうからくる風はまだ少し冷たい。けれど、真冬のように肌を刺す冷えではなく、どこか薄い水の膜を含んだやわらかな冷たさだ。窓辺のレースがそのたびにかすかに揺れ、館の壁へ白い影を落としている。どこかで水鳥が鳴き、朝の遅いこの館らしく、物音は少ない。起きている人間の数が少ないぶん、一つひとつの気配が遠くて穏やかだ。 ヴィルレオは、その静けさの中で机に向かっていた。 東側の客室に備え付けられた小ぶりの机。王都の書斎に比べれば驚くほど簡素で、筆記具も最低限しか置かれていない。公務を片づけるには足りないが、数枚の書状へ目を通し、返事を書きつけるだけなら十分だった。昨夜は結局ほとんど眠れぬまま朝を迎え、ほんの短く目を閉じたあとでこうして机の前に座っている。 手元には王都から届けられた書類がある。北方からの報告。王城からの催促。領地の会計。どれも見慣れた文字列だ。以前なら、椅子へ腰を下ろした瞬間に頭が自然と切り替わり、必要な案件の順番がすぐに見えていた。だが今朝は、紙の上の文字が妙に遠い。目で追っても、意味が頭へ入ってこない。たとえば「橋梁補修予算」という言葉を読んでも、その向こうにあるはずの数字や季節や人員のことではなく、まるで無関係に、昨夜の扉越しの静けさばかりが蘇る。 愛している。 夜明け前、ようやく自分の感情へつけた名前。 それを認めたところで、何かが軽くなるわけではなかった。むしろ逆だ。言葉を持ったことで、胸の痛みはさらに輪郭を得た。あれほど混ざり合っていた後悔や執着や焦りの底に、本当にあったものがはっきりと見えてしまったからだ。 愛していたのだ、と今ならわかる。 では、なぜあの時間にそれを差し出さなかったのか。 問いはすぐそこへ戻る。 ヴィルレオはペンを置いた。インクの匂いがかすかに立つ。窓の外では、まだ開ききらぬ花壇の白と青が朝の光に触れていた。リュゼリアが植えた花。彼女は今日も少しだけ庭へ出るだろうか。熱はどうか。咳は。昨夜は眠れただろうか。そんなことばかりが次々と頭をよぎり、公務の書類はますます遠のいていく。 机から立ち上がり、窓辺へ歩く。 朝の庭は静かだった。南側の石垣に守られた花壇は昨夜より少しだけ明るく、白いマーガレットの花弁がほんのわずか開いているのが見える。青いネ

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